『火星の人』(アンディ・ウィアー著 小野田和子訳 早川書房) を読んでみたが、私には、理系の話がとにかく難しい。映画を先に観ていてむしろ良かった。何となくこういう作業をしようとしているのだろうとかわかっているから何となくこのことについて書いてあるのだろうと読み流せるし、その場面を何となく乗り切れる。でも内容自体は何言ってるんだかわからない。「何となく」だらけ。字面を追っているだけで、頭には入ってこない。高校の時の物理の授業を思い出す。当時、時にはちゃんと聞こうと先生と向き合ってみても、どうしちゃったの……という状態である。私がどうしちゃったの。ではない。先生どうしちゃったの。である。先生何を言っているの。と思うくらい、わけがわからない。「火星の人」での文の多くは、物理の理屈で数字やらカタカナやらで説明がなされる。そんなわけで、物理や化学が得意ならピンとくる内容も、「何言ってるんだかわからない」と思っている私が読んだところで、頭に入ってくるわけがなく、「ふーん」「へー」と、右から左へ流れていく。映画だと、映像として目に飛び込んでくる宇宙飛行士とかNASAJPLやスタッフたちの優秀さばかりが(実際にそうなのだと『コズミックフロント』や『宇宙兄弟』を見て感じている)目立つのだが、本となると、やはり作者の優秀さを感じずにはいられない。そして作者はいったい何者なのだと、本の後ろにある「著者紹介」を見返した。
 著者のアンディ・ウィアーは、私より一つ下の同年代だった。父親は素粒子物理学者、と最初に書いてあったのを見て、なるほどそういう家庭環境で育ったんだな、脳の構造が父親に似ていたとしたらやはり理系分野に強い頭の子に育つだろうし、似ていなかったとしてもお父さんのことが好きだったら、自然とそういう会話が増えることだろう。そして彼は優秀だったらしく、15歳で国の研究所に雇われている。だから火星でどうのこうのなんて、私が想像できない内容になっても、ある程度仮説を立てることが可能だろうし、理屈で想像もできるだろう。理論立てて順序良く考えたら、こんな風になってもこうやって解決できなくはないのかもしれない。何の知識もなければ、孤独とか絶望とか感情論の映画になってしまい、大げさなサバイバル映画として仕立て上げられてしまう。わーとかギャーとか大騒ぎしたり、緊迫感ばかりのしんどい映画になってしまうだろう。そんな風になっていたら、それほど話題にも上っていないのかもしれないですね。映画化もされていないだろうし。
 そしてアンディ・ウィアーの何よりの魅力は、作家になりたかったことではないだろうか。これだけ理系方面で優秀でありながら、知識を生かして文にしたところである。きっと彼は書きたかったのだ。理屈とか理論とか知力とかそういうことに敬意を払いながら(それは内容からにじみ出ている)、考えたことや思っていることを文章にしたかった。
 そしてこうやって本になり、映画になり、何よりなのだ。
 最後に、火星を脱出するまでの旅のことを少し。映画では「7か月後」と書いてその場面になるのだが、本ではここが相当長く辛い旅であった。こんなに大変だったのかと、映画には描かれなかったシーンに何度もまた絶望感が襲ってしまった。本当にこれは火星を脱出するまでのタフな物語なのだ。