映画『オデッセイ』を観た後に、原作「火星の人」(アンディ・ウィアー著 小野田和子訳 早川書房)を読んだ。
 映画がとても気に入ったし、映画で観たために原作と比較してしまうことを心配して、なかなか読む気にならなかった。漫画でも原作を読んだ後って、映画で観る時に比較してしまう。どっちの方が良かった、という風に。漫画が良いと映画を観てガッカリしたり、映画を先に観ていると原作を読んでガッカリしたり。フラットな気持ちで両方を比較、分析と言う風にはなかなかならない。どちらの出来も、それぞれに満足!とはいかないものだ。だからどちらかを先に目にして満足した時、なるべく後から映画は観ない、或いは原作は読まないようにと、つまらないことにこだわってしまう。そうは言っても観てしまったり読んでしまったりするんだけど。
 今回は、単に『オデッセイ』の興奮さめやらず、サウンドトラックをしつこく聴き、インタビュー動画を観て、いつまでも『オデッセイ』への執着を引きずっており、まだまだ浸っていたくてとうとう原作を手に取ってみた。
 で、久しぶりに「どちらも良い」と思った。
 違いの面白さをたくさん楽しんだ。原作のマーク・ワトニーは、映画より感情的である。それもそのはず、本だからだ。文字になっているから、登場人物の気持ちを詳細に書かないと、作品として事柄だけを追うつまらない内容になる。だから気持ちが書かれてある。当たり前だ。本だからだ。外から見ただけではわからない気持ちが書かれてあると、感情的に受け取れる。しつこいけど当たり前だ。そして読む側としても、映画の感想では「理性的で知性的で、感情のコントロールができて素晴らしい」なんて書いていたが、結局、本は本で「人間的で良い!」なんて思っているのである。
 ずっと泣いていた場面もある。でももちろん泣いて終わるわけではない。何度も絶望する。悪態をつく。しかしその度に、さてではどうしよう、と考える。考えることに対して焦らず、頭の中で計算をして次に知力と体力を備える。
 やっぱり考えるのである。そして淡々と「とりあえずやってみる」のである。綿密に計算はされているが、失敗もする。NASAJPLの人たちもそうであった。マーク・ワトニーの置かれている立場を考え、何ができるか知力を絞る。案を地球上でできることはやってみる。アレスに乗っている宇宙飛行士たちもそうだ。考え得る限り考え、限界までとにかくやってみる。計算したり、できる範囲内のことで限界まで頑張る。そして皆に共通するのは、お互いの立場における気持ちを想像する。これが本当に温かく、ちょっとした一言一言が胸に迫ってくる。こういったセリフや場面が出る度に心を動かされた。私はこういう人たちが好きだとじわじわくるのだ。思いやるところも。
 マーク・ワトニーは、映画でも最後の方の場面で「何度も死ぬと思った」と言っていた時に「えっやっぱりそうだったの?」と思った。映画だから極力そういう感情は省いたのだろう。本には結構詳細に書いてある。それでもそれをお互いにぶつけずに自分で気持ちを処理するしかないとは言え、そうやってやり過ごす姿勢には感動を覚えるのだ。