本を読むことの一番の面白さは、新しい世界を知ることである。それがフィクションであっても、その世界は自分の中で広がり、刺激を与える。
 何か考えさせられるものはとても面白いと思うが、考えさせられなくても私は面白いと思う。単純にその世界を楽しむ。『ハリーポッター』も『アラルエン戦記』も、特に何かを考えさせられ、心に残るといった感じはない。子供の読み物だからとか言う人がいるが、そうやって小さな世界でも一つ一つを広げるチャンスを失っているなんて勿体ない!と私は思うのだ。
 新聞も読む。ちょっとくらい思想や記事が偏っていようと、自分がどう感じるかは別なのだ。これはどの本にも言えることだろう。自分がどう感じるかは自由である。又、新聞とかチラシに近い小さな冊子は、自分の知りたい情報だけをピックアップすることにしているので、元々自分の好みの部分だけ、最初から考えて選んで読んでいる。選ぶとか言いつつ、新たな発見はあるので読むことは私にとって、世界が広がることである。著名人が記事を書いていたら、読んでみるけど、そこに賛成する気持ちも反対する気持ちも起こる。それは読む人の感性次第ではないだろうか。他にフィクションではないエッセーだとか、教育的な物は、本当の意味で世界が広がる。
 最近読んだ『知ろうとすること』(早野龍五、糸井重里 新潮文庫)は、まさに「知ろうとすること」の大切さとその前向きな気持ち、自分が広がることの大事さが書かれている。これこそが知的好奇心なのだと思う。そして、本を読むことは、知的好奇心である。これは一生持っていたいものである。知りたいことを他人任せにしておきたくない。つまり、知的好奇心がない人は、話していて魅力がないのだ。だから、私はどこか「本を読まない人」とひとくくりにしてしまっているのかもしれない。「知的好奇心が湧かないから読めないのだ。ちょっと読んでは息切れしてしまい、つまらないと思ってしまうんだろう」とか思っちゃっている。もちろん人それぞれ「面白い」と感じる本も、部分も違うだろうし、本を読まない人のことを頭が働いていないなんてことは思わない。こんなこと書いている私もどちらかと言えば読んでいない方の部類だと思う。本の好みも偏っている。だけど友達にするなら、共通する話題で盛り上がりたいではないか。もし自分が読んでいない本なら、その本の内容について熱く語ってほしい。わかった風な口を聞いてほしいのではない。好奇心があれば、知りたいと思う気持ちから本や活字を読むはずというのが、私の偏見と先入観にインプットされているのだ。
 「本を読まない人」「マンガを読まない人」をひとくくりにしてしまう偏見、この気持ちをどうにかできないものかと書き始めたが、結局、何故私がそう思うのかが解明でき、しかも親しい友人相手なら、気を遣わずに楽しく話したいという気持ちが湧くから当たり前の心理的なメカニズムなのではということがわかった。
 親しくしなくて良い人にそれを求めなくても良いってことです。別にそんなことで下に見なくて良いはずだ。割り切って付き合いましょう。……なんて、対人関係の基本に立ち返りました。