自分がそれほど読書家だとはもちろん思っていない。だって実際それほど読んでいない。
 以前、『アメトーーク』で、読書芸人を観た時、わあすごいなあと感心してしまった。夫はそこまででないが、私よりは読んでいる。雑誌も好きで、特に対談モノが好みなので、雑誌で対談モノなんかあると、しょっちゅう買っている。これまた最近の忙しさにより「買っている」けど、読めているのか謎ではあるが。
 で、私はどうしても、本を読まない人をどこかで見下してしまっているところがある。あからさまに「えっ。本読まないの?」って馬鹿にした態度はしません。でも、ほぼ無意識に「本を読まない人」という偏見を持ってしまうようなのだ。心底「この思考のクセ、どうにかならないものだろうか」と思うことすらある。ちょっと不自由に感じることもあるくらいだ。対人関係において。そんなこと問題じゃないっていう器を持ちたいのだが、やっぱり「この人は本を読まない人」とインプットされてしまう。
 ネットで、本を読まない人を馬鹿にしている文やブログを読んだが、むしろ不快に思った。そんな風に人を見るなんて。って、自分だってそう見ているところがあるのに。でも、そうまでどうしても思いたくないのだ。思いたくないけど少しは思ってしまう。
 この矛盾を解明する気は特にないが、でも弁解や謝罪や懺悔や言い訳や、自分の中でこねくり回していたら整理できないだろうかという気持ちがあるので、今回書いている。
 私の親しい友人の一人は、感受性がとても強くて、中学の時に知り合ってから、彼女の感性の豊かさ、表現の豊かさ、繊細さ、心の内の葛藤に、ある意味尊敬の念を抱いていた。まあ惚れたようなものである。すごいなあ、そういうところ好きだなあと思っていたのだ。だから、私が色々と本を読んだ時に「彼女もこういう本を読んだらきっと感性が刺激される」という押しつけの気持ちを抑えることができなかった。数冊勧めてみて「そんなに好きじゃない」という感じが伝わってきたら、勧めるのをやめようと思っていた。
 しかし体を動かすことが好きで皆の人気者だった彼女は、意外にもというか、私にすればやっぱりって感じだったのだが、「すごく感動した」とか「本読むの面白いなあ!」と言ってくれた。何冊か勧めた後は、彼女は勝手に自分で探し出して読み始めていた。彼女には本を勧めて本当に良かった。活字を追うのを億劫がらないのは、私の仲間なのである。
 もう一人の同じ頃からの親友は、そういう話をすることなく大人になったが、彼女とルームメイトになった時、彼女は大量の漫画を持っていたので、それを借りてどんどん読んだ。「難しい本は私にはよくわからへんわ」と言っていたが、彼女の気持ちに合わせた本を勧めると、彼女はいつもあっさりと読了してくれた。
 二人とも、今でも私が本を勧めることをいやがらない本当にありがたい友達なのである。
 夫も、面白かったと思った本や漫画は勧めてくれる。それを読むかどうかは私の気持ちとその時の時間的な余裕次第なので、強要はされない。そういうのを読むことが良いのだとか押しつけもない。でも時間があって読み、それを共有する面白さもよくわかっているので、強く勧められた物はできるだけ読むようにする。