宝塚市で育った私は、神戸の方の私立中学を受験することになった。
 前にも書いたように、私の勉強能力は、小学四年生からピークが始まった。四年生なんて、周りもさほど本気になっていない時なので、ピークったって、どうなのだろうか。ただその頃はトップの女子校を狙えると言われて喜んだ。そして学習塾から同じ系列の進学塾を勧められ通うようになったが、私の成績はむしろ落ちていった。
 その塾は、成績順に席が決められており、下の何人かは次のテストの点数が悪いと二番目のクラスに落ちていく。一クラス、だいたい二十人くらいだっただろうか。一度だけ偶然6位になったことがあって戸惑った。「頑張ったもんなあ」とか「よくできた」とかそういう手応えなく6位だったので、「何でだ?」と眉間にしわを寄せるばかりで、素直に喜べなかった。本当にただの偶然にしか過ぎなかったのだ。私が得意だったのは、早口で季語を言い切るとか、早口で血液の流れを暗唱するとかそんなゲーム性の高いことばかりで、おとなしくしているタイプの私がいきなり早口で色々まくしたてることに、クラスの男子たちは目を丸くしていた。「わあ、ちゃんと言ってるで。めっちゃ早いのにな。」って。今思えば恥ずかしい。でも、早口で丸暗記したことで、ついそのゲームに勝ちたくなってしまい、ムキになって全部唱えた。父の入れ知恵(?)である。父の提案した面白い節回しでまくしたてた。いまだに内容を一部言える。ものすごーーくどうでも良い特技である。
 進学塾の1組の生徒たち、こと男子の上位8人位は、私にしたら「異常なほどできる」子たちだった。灘や甲陽、六甲を目指している子たちは「別世界」。頭の働きが違うし、知っていることも多かった。話している内容も何のことやらといった感じだった。息子を見れば、そういう部分はあるが、彼らと違うのは、息子がヒジョーにのんびり屋で素朴であることだ。ちゃんとしていないし。これは田舎で育ったおかげであるとも言えるだろう。都会に住んでいたら、息子は窮屈な思いで萎縮しているかもしれず、ここに住んでいて良かったと思う。彼らは成績にもガツガツしていたし、ストレスフルな表情をしていた。先生も対抗意識を燃やした表情で会話をし、なんか笑って見守るしかなかった。かわいそうなくらい小学生らしくなかった。
 結局私の成績は少しずつ落ちていき、度々ある全国実力テストもだいぶ落ち、塾でも1組の下の方、それもギリギリな感じになり、6年生の1学期には体力がついていかず、母が進学塾を辞めさせた。時期が時期なだけに引き留められたようだが、体にストレスが表れるのは良くないという母の判断は妥当だっただろう。私も親の立場なら辞めさせたい。
 そして、学習塾に戻った。
 学習塾は、学校の補助的な勉強だけだったので、私だけ別の曜日に通って自習室や先生の事務室で勉強した。可愛がってくれていた先生が特別に、私の苦手な算数を見てくれていた。
 とは言え、そこの学習塾で、国語算数の総合でトップを取ることは、受験する私にとって当たり前とされており、プレッシャーに感じていた私は、変なプライドを守ることに固執してしまった。