なんだよーやっぱりここか私のツボは。ため息が出る思いであった。
 スクールカウンセラーは「そういうのをトラウマっていうんですよ。」と言い切った。初めて専門家に言われた。「トラウマ」って。しかも、帰国子女で体験した漠然とした思いをそのように言われたことも初めてであった。一つの大きな出来事でなく、日々の恐怖や不安感。自分で「トラウマだー」って言うのは簡単だし、自虐的な思いをこめて笑ったりしていたけど、そうか、専門家から見てもそう思えるんだと胸のつかえがおりるようだった。
 そして、ちょっと衝撃的なことを言われた。
 「アナタ、自分で何度も自分を傷つけようとしているように見える。」と。
 これまた、本でよく読んだことのあるヤツだ。
 一番の典型例は、DVを受けたり見たりしてきた子供は、大人になってから、そういう相手を選びやすい。その心理についても勉強してきた。そういうDVなどの例じゃなくても、あらゆることで、連鎖が良くないことであると意識的になり、心がけたり、振り返ったりしてみた。自らの気持ちを傷つけるようなことはしたくない。子供に対しても。
 でも、こんな場面でもそういう風に発揮されるとは考えもしなかった。こんなことでもわざわざ傷つきに行くということ。それはトラウマだから、克服、消化できていないから、としか言いようがない。
 DVを受けて育った子が大人になってやはりそういう人を選んだ時、「そんなつもりはなかったのに」という思い、「こんな人はいや」という思いの他に、経験したことがあるのでどこか安心という気持ち、それと注目したい点が「私ならうまくやっていけるはず」という強い思いがある。そんなことないんだよ、そういう人から逃げた方が良い、という周りの思いとは別に、本人はギリギリまで頑張ってしまう。最悪の場合、死に至る。
 私の場合は、そういった暴力的なことはなく、親子関係などとも関係ないのに、心の傷として強烈に残っていることを指摘された。わざわざ嫌な思いをし自分を傷つけるために、無理しているように見える。と。自分ではそのつもりはないのに。でも周りの信頼する人たちにもそろそろ止められている。私はまだ納得できていないのだが、専門家にもそのように言われたのなら、やはり、そういう印象を与えているのだろう。私だって勉強してきたのだから、そのような印象を与えることが、どういうことかくらいはわかっている。
 克服しようと頑張らなくても良い。頑張っても良いが頑張らなくても良い。これは私が勉強してきて充分わかっていることである。個人の気質と性格と環境、判断によるものである。今まで頑張ってきたよ、もう良いよ、親友相手になら私はそう声をかけるだろう。納得はできていないけれど、克服する方法、状況を知る方法は他にもある。今は焦る必要はないと気持ちを切り替え、他のやり方を探っているところである。思った以上に根が深かったですね。
 今後、克服するかどうかではなく、この気持ちを別の方向に生かしたいと思うようになっている。それがどのように作用するかはわからないけれど、中年期の今、自分がどう生きていくか、常に考えている。帰国子女である自分を受け入れることが基盤になりそうだ。