今回はどうしても書いておきたいことがあるために、あまり書きたくなかった「教育」について、少々時間を費やすこととする。もちろん書きたいのは、「思い出の出来事」なのだけど、今回それを書くにあたって、最近の学校の世界の風潮について、どうしても流さずに書いておきたい。そもそも私が勉強しているのは、人の「心」についてで、それはやればやるほど奥が深く興味をひき、楽しくてやめられない、好奇心が尽きることはない、といったところで、それが教育と切り離せないところはあるものの、教育について論じるのは、現場を知らない人間として気が引けるのと、遠慮もあり、書かずにいた。
 ただ、最近、強く感じていることがある。
 窮屈な感じである。
 私は、アメリカから帰国した時に、初めて登校し、入った教室で、すごく息が詰まる感じがした。皆、同じ髪の色、肌の色。その後、持っている物も、絵の描き方、色の塗り方、全てが似たようでなければ、笑われ、からかわれ、孤立するような気持ち。あれから、私は「違い」について敏感でもあるし、それに対して不寛容な人は、決して好きになれない。
 しかし、あれから35年ほど経った今の方が、小学校生活は窮屈に見える。
 皆、同じ、という感じはもっと強くなり、違いに対して厳しい。私はそういう世の中の風潮がとても嫌いだし、ちょっとした危機感さえおぼえることがある。
 息子が小学校生活を送っていて、そういったことが、とても透けて見えるのだ。
 鉛筆の持ち方から、持ち物の指定、色鉛筆の統一、絵の具の統一。その神経質さに、イライラすることさえある。何故こうなってしまったのか。どこかの親が細かいことを言うから、学校がそれに対応しているうちにこうなってきたのだろうか。わからないけど。
 「買えない子もいるから、同じにした方が良い」「汚くしている子がいるから、学校から指定して、そういった子もきれいにできるようにした方が良い」だの。キレイ汚い、も、それぞれの家庭の、気になる細かいところと、大ざっぱなところなどの基準があるはずで、何故それを統一しないといけないのかと思う。そこが非常に窮屈で、気持ちが悪い。
 私の小学生時代を思い返してみる。
 1クラス45人くらいが5クラスあって、先生方は「この人数を減らすと、もっと目が行き届くのに」「人数が少ないと、学習面でも、道徳的な面でも、底上げができるだろうに」などと思っていたかもしれない。
 でも、今、息子の学校は、1クラス、大体30人弱、というのを見ていると、目が行き届いているというわけでもなければ、学習面でも道徳面でも昔とそう変わらない。できない子はやっぱりできないし、家庭で「できない」ということをカバーしていかないと、結局はついていけていない子はいる。イジメだって、やっぱり先生の目の届かないところでコソコソっとやるから、発見はされにくい。先生方の仕事は増えていて、学校関係のことで費やす時間はむしろ多いそうだ。親が協力するような体制もない。
 そして、35年も経っているのに、おそらく当時の教師の望むところは実現できておらず、むしろ窮屈さは増しているように思える。