今まで書いた人たちも「思い出の人たち」だが、それ以外にも「思い出の人たち」はいる。友人ではなく、懐かしい先生方だ。これもまた、「思い出の人たち」として、大きな存在を占めている。
 最近、定年退職された私の小学校二年生の時の先生がいて、その先生のことを思い出しながら、ここのカテゴリーで、思い出の先生方のことも書いておこうと思い、友人たちのことで終わらすつもりが、考え直した。
 アメリカニュージャージーでも、お世話になった先生たちはいるが、幼稚園の頃の日本語学校の先生は、あまりにも状況がわかっておらず、アメリカの先生方は日本の先生方と距離感が全然違うので、ここで書き始めるとまたキリがなく、帰国して以降の、印象に残った先生方のことを書いていこうと思う。
 一年生の後半で、帰国子女として、日本の小学校に入学した私にとって、日常の一コマ一コマが新鮮であり、驚きであり、戸惑いであり、おそれであった。どんどん小さくなっていく私の目の前に現れたのが、小学校二年生の時のH先生である。
 彼女は、「今年、定年退職です」と、年賀状に記してあったので、時期をみはからって、手紙を書いた。そして、返事が来た。温かい内容に、この先生のことが好きだった幼い自分の気持ちがわかる気がした。私が当時、帰国子女としてとても毎日悲痛な思いで過ごしていたことを、H先生は知らなかったそうだ。つまり、H先生にとっては、当たり前にこなしていたことが、私の心には、とても心地よく響いたのだ。確かに、何か特別なことを言ったりしたりする先生ではなかったが、とにかく、子供が可愛いと思う気持ちを表現してくれた先生だった。なので、包容力があって、細かいことで注意するような先生ではなかった。一年生の時「私の絵がおかしい」と感じ、戸惑った気持ちを、おおらかに見守ってくれるようなタイプであった。下手だと恥ずかしがる絵を「ええやんかー。なあ?」と皆にニコニコ笑いかけながら言ってくれていた。「太陽を毎回絵の中に描くことから少しずつ卒業したらどうや」と言われ「そうや、色を混ぜることで、太陽は描けなくなるなあ。これから絵を描く時には、一つの色ではなくて、二つ以上の色を混ぜないとアカンてこの前言うたな」とニヤニヤしているので、私は、赤色と朱色で太陽をデカデカと描いてやった。すると先生が「あっ。コラ。これはナンや。混ぜてへんのちゃうの」と言うので「赤色と朱色を混ぜましたー。」と、憎たらしい言い方で言い返すと、先生はニタッと笑って見過ごしてくれた。そうやって言い返せる余地のある先生だった。
 日本の小学校で初めての運動会、すごく楽しみにしていたのに、鼻血を出して保健室で過ごさなければいけなかった時には、保健室まで見に来てくれた。遠足もお腹を悪くして休んでしまったり、身体が丈夫ではなかった私は、皆の歓声を遠くで聞きながら、何で私はこうなんだろうと、途方に暮れた気持ちでぼんやりしていたので、先生が来て「どうや?」とのぞいてくれた時に、涙がホロリと流れてしまった。既に家族や友人たちの前で、相当涙をこらえるようになっていた私である。でも、涙を流した私に、先生は「アラ。泣くなんて珍しい。」とニコニコして「残念やったな。」と言ってくれた。そして、6年生だった兄に「一緒に帰ってやって」ということを伝えてくれて、私は兄と一緒に下校した。
 たくさんの思い出がある、温かい先生だ。こういう先生がいるということで、私の、日本の小学校の先生に対する印象を、良いものにしてくれた。その後、何年も先生には恵まれなかったけど。