小学校五年生の頃、いじめっ子のしつこさに対して、最近の表現で言えば「キレた」私は、ある下校時、大声で言い返した。すると、イジメはあっさり終わった。彼女のいじめる相手は、山のようにいたので、何も抵抗し始めた私ではなく、その標的になる相手を変えれば良いだけのようだった。
 Uさんもその一人で、下校時間に呼び出されて何事かと行くと、Uさんが、ねちねちといじめっ子に色々言われていた。事情がよくわからずに「アナタはどう思う?」と聞かれて、私はいじめっ子に同意してしまった。内容だけ聞くと、確かにそのいじめっ子の方が正しくて、Uさんの方がずるいとか間違っているとかいうことだった。
 しかし、所詮いじめっ子なのだ。彼女の方が正しいように話をもっていっている場合もあるだろう。それに、彼女の理屈が正しかったとしても、大勢でUさんを追い込むことはないだろう。私がこれまた大いに後悔している場面の一つだ。Uさんは、しくしくと泣きだしてしまった。私はどうして良いかわからずに立ちつくしていた。申し訳ない気持ちと、ここで彼女に味方になればまた私にいじめの矛先が向けられるのかという恐怖、でも今起きている問題が今一つわかっていないスッキリしない感じがグルグルと頭の中をめぐって、居心地悪く棒立ちになっていた。そして、その場にいる自分がどういう立場をとれば良かったのか考え続けていた。私はまだまだ心の弱い、何よりも彼女を傷つけずにいじめからも免れる方法を知らない知恵のない人間だったのだ。
 間もなく、標的はまた変わったようで、いじめっ子は次々と自分のストレスを誰かに向けていった。私は距離を置いていたが、特定の友達はできずにいた。
 しかし転機がやってきた。六年生になる頃、多くの生徒が引っ越し、転校して出て行ったために、二年ごとにしか行われないはずのクラス替えが、その年には行われることになったのだ。
 そこで、いじめっ子と離れ、Uさんと同じクラスになった。クラス発表されて体育館で列に並び、さあ六年生の新しい各教室に戻りましょうという時、Uさんと私は自然に隣りを歩いて声を掛け合い、すぐに親しくなった。彼女の器の大きさに、今も感謝している。
 いじめっ子がいない環境で、新しい友達がいる。転校していったAさんと離れ離れになってから初めてのことで、毎日学校に行くのが楽しくなった。
 でも、私はその時既に、中学受験を目指していた。成績が伸びていたこともあり、母親が考えてくれていたようだ。日本に帰国してからどんどん閉じこもっていく、私の良さが失われていく、自信が消えていく、日本の文化に馴染めず、雰囲気が合わなくて友達がなかなかできない、イジメにあう、そんな私を見て、私立が良いと思ったのだろう。さらに小学校四、五年の先生が、生徒を簡単にビンタしたり(されたことない生徒は一人もいないと思う)堂々と特定の女子生徒をひいきするような先生たちで、相性が悪かったことも、もしかしたらあるのかもしれない。
 身体が丈夫じゃなかったために、進学塾に通いながらの受験生活が身体にこたえて、へとへとになり、肺炎一歩手前の気管支炎にかかった頃、母が見かねて進学塾をやめさせた。そして、元いた学習塾に戻り、算数と国語以外は、母に教わった。勉強嫌いの私には、かなりの闘いだった。