先日のある事件で、以前の事件と重ねて「共通するのは、自己評価の高さと社会での認められなさとの差に挫折している点だ」というようなことを言っていた報道があったのが気になった。
 「自己評価」という言葉を、ほんの少し取り違えていないだろうか。「自己評価の高さ」という言葉だけが浮いてしまっているように聞こえる。
 自己評価が高いのは、ナルシストいう意味ではない。自分の能力以上のものを信じるのではない。つまり、外見的なものや、何かができるとかできないとかそういったものを自分で判断することを「自己評価」と言い切らないでほしいのだ。
 心理学を勉強していて思うのは、「自己評価の低い人」が、心の問題を抱え、それがひどくすると犯罪を犯すことの方が、自己評価の高い人より多いということだ。先日の報道だと、自己評価の高い人が犯罪を犯す、つまり親は子供をほめすぎてはいけないだの、厳しく接しなければならないだの、アナタは、自分が思っているほどできないんだよ、というのを教えなければならないように捉える人も多いのではないだろうか。
 心理学で使われる「自己評価」の意味と、少しズレている気がしてならない。
 繰り返すが、自己評価は、高くあって良い。ただ、自己評価とは、その人の存在価値である。
 「本当にプライドの高い自己評価の高い子であれば、むしろ、自分の非を認めることができます。相手に謝ることができます。非を認めることができないのは、一見プライドが高そうに見えても、実は、逆に自己評価がとても低いからなのです。」(『子育てハッピーアドバイス2』スクールカウンセラー・医者 明橋大二著 万年堂出版)との記述がある。
 何かができたから周りから評価されるべきだとか、つまりは自分が勉強や運動ができた、ということと周りからの評価を気にするということのズレが犯罪につながっていくことはあり得るだろうが、自己評価は、そんなところにはない。どんなことができようとできなかろうと、自分は親に愛されているという自信、自分が精神的に甘えたい時にはしっかりと受け止めてもらえるという自信、あらゆることがうまくいかなくても、この世に存在して良いのだという気持ち、日常生活の中で翻弄されている時でも、いざという時には、家族に自分のことを考えてもらえるという自信、こういったことを「自己評価が高い」というのである。
 間違って捉える教育者がいないことを願う。自己評価は高くあるべきなのだ。
 先日の事件、それ以前の事件、共に当人たちの自己評価が高かったとは思いにくい。周りへのストレスが強くても、むなしさを感じても、真の意味で自己評価が高ければ、その人が生きていく力になり、周りに自分のストレスを向けるということはないはずだ。